2009年06月26日

オスマン帝国の最盛期

第10代スレイマン1世のとき、オスマン帝国の国力はもっとも充実して軍事力で他国を圧倒するに至り、その領域は中央ヨーロッパ、北アフリカにまで広がった。

スレイマン1世は即位するとまずベオグラードを征服してハンガリー領に進出し、ロードス島でムスリムに対する海賊行為を行っていた聖ヨハネ騎士団と戦ってこれを駆逐し、東地中海の制海権を握った。1526年にはモハーチの戦いでハンガリー王国を破り、その大半を占領する。さらに東ではサファヴィー朝からイラクのバグダードを奪い、南ではイエメンに出兵してアデンを征服した。

またこれに前後してハプスブルク家と対立していたフランスのフランソワ1世と同盟し、1529年にはハプスブルク家の神聖ローマ皇帝カール5世の都ウィーンを1ヶ月以上にわたって包囲した。第一次ウィーン包囲と呼ばれるこの作戦は失敗に終わったものの、オスマン軍がヨーロッパの奥深くを脅かしたことは西欧諸国に強い衝撃を与えた。さらに、1538年プレヴェザの海戦では、スペインなどの連合艦隊を破り、地中海のほぼ全域を支配下に置くことに成功した。そしてスレイマンはインドネシアのアチェ王国のスルタンであるアラー・ウッディーンの要請に応じて艦隊を派遣した。このとき艦隊はマラッカ海峡まで行ったという。 スレイマンの治世はこのように輝かしい軍事的成功に彩られ、オスマン帝国の人々にとっては、建国以来オスマン帝国が形成してきた国制が完成の域に達し、制度上の破綻がなかった理想の時代として記憶された。しかし、スレイマンの治世はオスマン帝国の国制の転換期の始まりでもあった。象徴的には、スレイマン以降、君主が陣頭に立って出征することはなくなり、政治すらもほとんど大宰相(首相)が担うようになる。

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また、軍事構造の転換によって火砲で武装した歩兵であるイェニチェリを核とする常備軍の重要性が高まり、その人員が爆発的に増大して維持費が軍事費を圧迫し、かわって在地の騎士であるスィパーヒー層が没落していった。それに応じてスィパーヒーに軍役と引き換えにひとつの税源からの徴税権を付与していた従来のティマール制は消滅し、かわって徴税権を競売に付して購入者に請け負わせる徴税請負制(イルティザーム制)が財政の主流となる。従来このような変化はスレイマン以降の帝国の衰退としてとらえられたが、しかしむしろ帝国の政治・社会・経済の構造が世界的な趨勢に応じて大きく転換されたのだとの議論が現在では一般的である。制度の項で後述する高度な官僚機構は、むしろスレイマン後の17世紀になって発展を始めたのである。

2009年06月10日

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は

日本の国旗(にっぽんのこっき、にほんのこっき)は、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから、また今日一般的に日の丸(ひのまる)と呼ばれる旗である。

国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)の規定によれば、旗の形は縦が横の3分の2の長方形。日章の直径は縦の5分の3で中心は旗の中心。色は地は白色、日章は紅色とされている。

日本人は古来、太陽を信仰の対象としており、聖徳太子も隋の皇帝・煬帝へ、「日出処天子―」で始まる手紙を送っている。また国名「日本」(日ノ本)というところからも太陽(日の出)を意識しており、「日が昇る」という現象を大切にしていたことが窺えよう。 神社の拝殿は基本的に太陽を拝める方角を向いており背を向けることは珍しく、そのことからも太陽への信仰は窺える。

太陽信仰や「日ノ本」の国という意識が具体的に記載されている文献としては、797年(延暦16年)の『続日本紀』の中にある文武天皇の701年(大宝元年)の朝賀の儀に関する記述で、正月元旦、儀式会場の飾りつけに「日像」の旗を掲げたとあり、これが日の丸の原型で最も古いものといわれている[2]。
スノーボード
ベジタリアニズム
キャラクター
絵画
甲殻類
潮干狩り
相撲
就学前教育
月経
緩歩動物
エイズ、HIV感染
信越地方
切り絵
鳥類
新婚旅行
盆栽
夜景
御節料理
カーナビゲーション
里山

世界的・歴史的に太陽が赤で描かれることは珍しく、太陽は黄色または金色、それに対して月は白色または銀色で表すのが一般的である[3]。日本でも古代から赤い真円で太陽を表すことが一般的であったというわけではない。例えば高松塚古墳、キトラ古墳には東西の壁に日象・月象が描かれているが、共に日象は金、月象は銀の真円で表されている。また文武天皇の即位以来、宮中の重要儀式では三足烏をかたどった銅烏幢に日月を象徴する日像幢と月像幢を伴って飾っていたことが知られるが、神宮文庫の『文安御即位調度之図』(文安元年記録)の写本からは、この日像幢が丸い金銅の地に赤く烏を描いたものであったことが確認されている。これは世俗的にも共通した表現であったようであり、『平家物語』などの記述などからも平安末期の頃までの日輪の表現は通常赤地に金丸であったと考えられている。対して赤い真円で太陽を表現する系譜は、中国漢時代の帛画に遡る(上の日像幢と同様に内側に黒い烏を配するものである)。日本での古い例としては、法隆寺の玉虫の厨子の背面の須弥山図に、赤い真円で表された日象が確認される。また平安時代においても密教図像などに見出される表現であり、中国から仏教とともにもたらされた慣習であると推測される。こうした表現が原型となり、白地赤丸の日章旗が生まれたと考えるのが妥当であろう。なお日本では紅白がめでたい色とされており、日章旗が定着していった事実は日本人の色彩文化を知るうえで興味深い。ちなみに「あか(赤)」の語源は「あかし(明し)(あかるい)」と同源であるという[4]。

現存最古の日章旗としては、山梨県甲州市の裂石山雲峰寺所蔵のものが知られている。これは後冷泉天皇より源義光(新羅三郎)へ下賜されたという伝承があり、「御旗」(みはた)と呼ばれて義光の系譜に連なる甲斐源氏宗家の甲斐武田家に家宝として伝来した。伝世品のため真偽のほどは不明だが、中世前半に遡る遺例として貴重である。また同じく中世の日章旗とされるものとしては、奈良県五條市(旧西吉野村)の堀家に伝わる後醍醐天皇下賜のものが知られる。

室町時代の勘合貿易、豊臣秀吉から徳川家光の第3次鎖国令が出される1635年(寛永12年)までの間に行われた朱印船貿易の際に日本の船籍を表すものとして船の船尾に日の丸の旗が掲げられた。

2009年06月06日

寄木細工(よせぎざいく)は、箱根や海外の

寄木細工(よせぎざいく)は、箱根や海外の土産物屋でよく見られる伝統工芸品である。200年程の歴史を持つ。縞(シマ)、市松、紗綾型(サヤガタ)、麻の葉、マス、矢羽根、青海波(セイカイハ)など日本の伝統文様を木で寄せた技法である。 毎年正月に開催される箱根駅伝では、往路優勝チームに寄木細工で作られたトロフィーが授与されることで知られている。

材料は日本各地にある、ホオ、ニガキ、サクラ、ミズキ、タモなどの雑木、倒木して土に埋まり数百年かかって掘り出された桂などの神代(ジンダイ)などを使用する。箱根山などにある樹木では植林されているのであまり適していない。材料選びは赤身が弱いものを小寄木(こよせぎ)、強いものを無垢にし、横挽きして手押し鉋で修正し、縦挽きして尺貫法で1分?1分5厘、約3ミリ?4ミリと厚さを決める。ねじれ、そりの強い材料は使えない。自動鉋盤で2.5?3.65ミリというように木取りの仕上がりの寸法を決める。

まず、一筆書きできる柄を選ぶ。鋸はキリ穴から始まってキリ穴で終わるようにしなければならない。 市販されている木の文字などは糸鋸盤で挽かれたものである。定盤を刃の厚み分傾斜させることで曲がりの少ない丸は嵌め込まれる。これを応用したものが木象嵌(もくぞうがん)である。ゼンマイの板をタガネで割りこれで鋸を作る。さらに特別なヤスリで一本一本刃をつくる。最後に背を落とせば糸に近い繊細な刃ができる。はめる板を地板のはめ込みたい部分に模り上で接着させて定盤を傾斜させて本挽きすると、はめ込まれる板がピッタリ地板に入る。木クズを落として電熱器で煮たニカワをブラシを使って接着させる。この工程を繰り返して、富士山、山水、納屋とはめこまれる。

寄せ木を施した木材から木製品に加工する技法をムク作りという。無垢(むく)材は広い木端面があればいろいろな木材で接合は可能である。大きな縞のブロックを木工のろくろ、旋盤などを使い立体的な美しい曲面に仕上げ、丸盆、ぐいのみ、なつめなどができる。表面は寄木にして材料を積層にしてフロアーなどの床材にも応用できる。小寄木の場合は傾斜させる治具を使い四角と三角の棒の木片を作る。これで木取りは終わる。

色が異なる各種の木片を複数寄せ合わせて接着剤で止め幾何学的な模様のある種板を作成する。 麻の葉の場合は三角を3つにスジを入れて1つの三角の寄木、単位文様を作る。六角にした寄木を鉋で面一(つらいち)に修正とスジを型板に入れ万力をかける。そして最後にひし形にして終わる。 次に大寄せという工程に入る。この大寄せでは各単位文様から大きさ、材料の良し悪しを決めていきバランスのよい小寄木にしていく。
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種板の表面を薄く削った物をズクという。ズクは木箱などの他の木製品の表面に貼り、その文様、絵柄を楽しむためのものである。この技法をズク貼りという。小寄木、山水、大名行列などの寄木または木象嵌に埋木を施して、湿らせたズク板を鉋で削るのだが、削れ具合があるため硬木と軟木の組み合わせはできない。削った後は万力で重しをかけ乾燥を防ぎ、紙に裏打ちする。これでズク貼りができる。

例えば市松の中に曲線で扇形を入れる場合は糸鋸で嵌め込む木象嵌と呼ばれる技法が使われる。そのほかタバコ入れなどには引き出す部分が曲線になっており木製のシャッター(スダレ)のように開き仕組まれたピアノ線から音が鳴るものもある。シャッター部分は木象嵌で箱のまわりはズクになっている。また、秘密箱とも呼ばれる、木片を引き出してスライドさせる仕掛けを組んで開けにくくした箱などが有名である。最近ではハローキティ人形を寄木とろくろで作ったコラボレーションの製品もある。

2009年04月23日

ロタリンギア

ロタリンギア(Lotharingia)は西ヨーロッパに短期間存在した王国。ロタール2世が父ロタール1世(中フランク王、ローマ皇帝)から継承した領土の集合。名前はラテン語のLotharii Regnum(ロタールの領土)に由来する。

この領域は843年のヴェルダン条約で分割されたカロリング朝の諸王国のうちの北部にある。ロタール2世の死後、遺領はメルセン条約により、東フランク王国と西フランク王国の間でさらに分割された。

厳密には、ロタリンギア人という統一された民族集団は存在しなかった。ロタリンギアと総称される地域には、現在の以下の国々や地方が含まれる。

オランダ、ベルギー、ルクセンブルク(ネーデルラント)
ドイツ - ノルトライン=ヴェストファーレン州、ラインラント=プファルツ州、ザールラント州
フランス - ロレーヌ地域圏、アルザス地域圏
ロタリンギアの名はロレーヌ(フランス語:Lorraine)、ロートリンゲン(ドイツ語:Lothringen)の由来になった。

ロタール2世以後、ロタリンギアは独自の王を持たなかった。ドイツ王ハインリヒ1世(捕鳥王)は分割された国々を、ドイツ王の下の公領として支配下に置いた。その子で後継者のオットー大帝は、弟ケルン大司教ブルーノに支配権を認めた。959年、ブルーノは公領を上ロートリンゲンと下ロートリンゲンに永続的に二分した。

上ロートリンゲンはロレーヌ(ロートリンゲン)公国となり、1766年まで続いた。ロレーヌは1000年の間、フランスとドイツの間の係争地となった。

下ロートリンゲン(現在のベルギー、オランダ、ドイツのライン川西岸、フランス北部・スヘルデ川の東)の公は、1190年に完全に権威を失墜した。11世紀から12世紀の間に、下ロートリンゲン公国はいくつもの公国(ブラバント、リンブルフ、ゲルデルン)、司教領、伯領、帝国直轄地へと分割された。ブラバント公は下ロートリンゲン(またはLothier)公の尊称を伝統的に保持した。

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ロタリンギアの王
ロタール2世(855年 - 869年)
シャルル禿頭王(869年 - 877年)
ルイ吃音王(877年 - 879年)
ルートヴィヒ若年王(879年 - 882年)
カール肥満王(882年 - 887年)
アルヌルフ(887年 - 895年)
ツヴェンティボルト(895年 - 900年)
ルートヴィヒ幼童王(900年 - 911年)
シャルル単純王(911年 - 922年)
922年にロタリンギアはドイツ王国へ包含された。

2009年04月22日

無神論

無神論(むしんろん、atheism ラテン語:atheismus)とは、世界観の説明に神の存在、意思の介在などを必要としない考え方である。

神に関心がない、いわゆる「無宗教」と無神論は混同されがちだが、無宗教でありながらも「神は信じる」と言う人もおり、両者は厳密には区別して考えられるべきである。また、無神論の典型とされる唯物論と関連性が深い機械論は、どちらかと言えば神がいるのかいないのかの議論を避けているので必ずしも無神論とは限らない。

無神論は一般的には既存宗教と対立するとみなされる考え方であり、両者の間には軋轢が生じることも多い。しかし、近年では科学の発展や浸透に伴って唯物論的な考え方が一般に受け入れられてきており、無神論に対する風当たりは弱まってきているとされる。一方で、保守的な地域では無神論に対する根強い不信感もある。さらに、アメリカ合衆国で台頭したインテリジェント・デザイン論のように、表向きでは科学と宗教の融合ないし折衷を自称しながら、実質的に自然科学を排斥する運動も見られる。一方で厳格な無神論者は宗教に対する激しい敵意を抱くことも多い。共産主義国における宗教の弾圧や虐殺などが無神論と結び付けられることも多い。

神の観念は実に多様であるため、神の定義如何によってどんな考え方も無神論とみなしうるし、その逆も成り立つ。故に一部の一神教徒が汎神論宗教や仏教を『無神論』とすることがあり、逆に一部の多神教徒が一神教徒を『無神論』とすることもある。そのため無神論にはいくつかの定義が存在する。狭義には『一神教におけるような唯一絶対の造物主を認めない立場』広義には『神もしくはその他の類似の名前の付いた、人間や自然を超えた存在すべてを認めない立場』を無神論と呼ぶ。前者の定義に当てはめれば、仏教や儒教は無神論的宗教であるが、後者の定義に当てはめれば有神論的宗教と見なされる。

無神論者は、神の存在についての考察や議論を避ける消極的無神論と、神の不在を明言する積極的無神論に分けられる。無神論の明確な対義語は有神論である。理神論や汎神論は、無神論と対義的に扱われることもあるし、消極的無神論の一部と見なされることもある。消極的無神論と不可知論は時に見分けがつかないか、重複する。積極的無神論者は常に宗教を批判するわけではない。したがって反宗教主義と積極的無神論は区別されなければならない。宗教批判を行う強い無神論者はしばしば「戦闘的無神論者」と呼ばれる。この語は信仰を持つ人を愚かであると見なすような、節度を越えた宗教批判へ非難の意味を込めて用いられることもある。

語源
一般的な語源は古代ギリシャの「atheos」「asebs」「atheots」である。古代ギリシアの民族や国家(ポリス、ギリシアの都市国家)においてその守護神を信じない「ある人々」(例:アテナイで女神アテナを信じない人たち)を示した。
ボライズ ピーマン ストー トラ!トラ! ルワン クッツ フーリガン チレース ディーピー マルガリ カツレツ ストアブ オルゴ れいほく ステップ びゃくぐん 横野柿 ストア テーマ サルバド アクティブ ピンぼけ マドラー スコップ スメグマ ドティー スローフ レンチ フェン スロー ミリオン ブカレスト ロボトミ セラム 平和の種 ベルト ヤプー もらーど デンマーク サーンチー ピアノ はちろ パラソル スキップ ランダム モンブ ぶなしめじ セニョーラ ボンボン イアル


キケロがラテン語で翻訳したことからラテン語を語源とする説もある。無神論者はラテン語で「atheus」という。

古代ギリシアではまずデモクリトスやエピクロスが唯物論に基ずく無神論的な思想を提唱し、ローマ時代にはルクレティウスがそれをより明確な無神論の形で提唱した。

2009年04月05日

すごろく

すごろく(雙六・双六)とは、サイコロを振って、出た目に従って升目にある駒を進めて上がりに近づけるボードゲーム。

その名の由来はさいころを2個振り、双方とも最大値である6のゾロ目がいかに出るかが形勢を左右したゲームであったため、「雙六」あるいは異字体として「双六」という字が当てられるようになった(「雙」・「双」は同じ意味を持つ)という説がある。

日本では「雙六」と書かれた盤双六(ばんすごろく)と後世に発生して単に「双六」と称した絵双六(えすごろく)の2種類があった。両者は古くは峻別されていたが、江戸時代には雙六(盤双六)と双六(絵双六)が双方共に双六と称されていたため、混乱が生じた。盤双六は幕末期に廃れ、現在では、双六と言えばほぼ確実に絵双六を指す。

なお、日本の遊戯の歴史における先駆的な研究家である増川宏一は、江戸時代以前の日記などの記録類においては誤記と思われる少数例を除けば「雙六」と「双六」の使い分けがはっきりとしている事、日本語以外の言語でも盤双六系遊戯と絵双六系遊戯にはそれぞれ違う単語があてられているのが殆どであることから、両者は同じ「すごろく」であっても全く別な遊戯であり、雙六(盤双六)に「双六」という表記を用いるのは不適切であると唱えている。

本項目においては、項目名は共通する「すごろく」を採用し、個々の記述に関しては今日の主流な呼び方である「盤双六」/「雙六」と「絵双六」/「双六」の名称で解説する。また、「盤双六(雙六)」に関しては「バックギャモン」の項目もあわせて参照のこと。

源流 [編集]
起源は古代エジプトで遊ばれたセネトという遊びであるとされているが、後の盤双六の原型と呼べるものはローマ帝国で遊ばれた12×2マスの遊戯盤とされている。これがシルクロードを経由して中国に入ってきた。東大寺正倉院には生前の聖武天皇が遊んだとされる盤双六が納められている。ただし後世において広く遊ばれた盤双六は中世以後に中国の盤双六を取り入れて改良されたものであると言われている。

盤双六 [編集]
盤双六(ばんすごろく、雙六)というのは、奈良時代から江戸時代にかけて広く行われた古い形のバックギャモンの和名である。かつては上流階級の婦女子の嗜みでもあった。

白と黒の石をもちいる。上手のほうを白とする。
さいころの目にあわせて二つの石を動かすか、あるいは一つの石を目の合計数進めることができる。あともどりは出来ず、相手の石が二つ以上ある場合にはそこに進めない。
通常は石をすべて内地(インナーボード)に入れた段階で勝ち。これを「入勝(いりがち)」という。
ヒットすることを「切る」という。
切られた石は外に置かれ、切られた側は自分の番が来たとき、まずこの石を動かして戻さねば他の石を動かせない。
プライム(相手が進めない場所を6つ連続で作る)を作ることを「蒸す」といい、重要な戦術としていた。(上田竹翁の『新撰雙陸独稽古』明治三十年、青木嵩山堂による[1])
ギャモン勝ち、バックギャモン勝ちがない。石が切られて蒸される、つまりクローズアウトされた時点でゲームは終了。切った石を蒸した側が勝つが、これを「無地勝(むじがち)」といって上々の勝ちとした。
ぞろ目を出した時の特別扱いはない。
ダブリングキューブはない。(ダブリングキューブは1920年代にアメリカで発明された)

王様 ケルピ つまごい まさめ ドンタ ラドン スラグ リリース れんがいろ イグアナ ジーユー プロデュポ 寛仁 日野菜 かやべ 睡蓮 リサーチ 鳥のくちばし ながぬま ロット シンビ ロゼ オフデイ トラン ナノチュ シエスタ サンリ ハイル ドルメン シンデレラ せーじ フットギア アムス チャル 雪うさぎ ファム あんず ディレッ ランプ マチュピ とうゆう 竜馬の如く イカオ 春夏秋冬 モンスーン ムイズ しゅくや ユニテリ リードオ パーセク

2009年03月21日

亀山駅から和歌山市駅への方向

正式な起点は亀山駅であり、亀山駅から和歌山市駅への方向が下りとなるが、JR西日本所轄区間の新宮 - 和歌山間では、愛称付き列車の号数や列車番号が、和歌山駅から新宮駅へ向かう上り列車が下り列車に付ける奇数、逆方向の下り列車が上り列車に付ける偶数となっているのは、1989年7月の東海道本線への乗り入れ開始時に同線に合わせ変更したためである。輸送の形態および利用者の感覚としても、大阪・和歌山から白浜・新宮方向が「下り」、反対方向が「上り」と捉えられている。
クシェット ショベル フットプ スターリン ツリー 一期 ワッフル シリコー フォル ミッド オパール パスカル ニシダ バシネット ネトル いなば ハント トルネード ローダー スパラキ おどろき プログム リベット グアヤ ケープ うわばみ 水鏡 いろは坂 ストア サイヒト マチア トレッカー タマシダ ぼちゃ 温順山椒 グロナス レディ オーバート SEOタイ ビュー ディス オフセン かゆばら ダビンチ ディマー カイアポ かもい ギタリ るすつ トケドー

地域輸送 [編集]
運行系統としては、JR東海の亀山 - 新宮間とJR西日本の新宮 - 紀伊田辺間、紀伊田辺 - 御坊間、御坊 - 和歌山間、和歌山 - 和歌山市間の5区間に分かれている。

亀山 - 新宮間
亀山 - 新宮間では、この区間を通して運転される列車がある。名古屋方面への直通列車として津 - 多気間を快速「みえ」が通り、殆どの列車が参宮線と直通運転している。これは伊勢市駅に車両基地があることが理由である。ほぼ全区間でワンマン運転を行っている列車が多くある。基本的には多気で系統分割されていて、亀山発着や名松線からの直通列車のほとんどの列車は多気から参宮線に入る。また多気 - 新宮間の普通列車については系統分割こそされてはいないものの、紀伊長島駅で時間調整や特急の待ち合わせなどで長時間停車する列車も多く存在する。運転距離の関係上、多気 - 新宮間の普通列車では必ずトイレ付きの車両が運用に就く。運行本数は亀山 - 多気間は日中ほぼ1時間おきであるが、多気 - 新宮間は1日9 - 10本と少なく、3時間以上列車の間隔が開く時間帯もある。
なお、津 - 松阪間は特定運賃を採用していないが、競合する近鉄名古屋線・山田線より運賃が安い。しかし、運転本数や終列車では近鉄に大きく差をつけられている。
新宮 - 紀伊田辺間
2時間に1本程度の運行。かつては本来急行用の165系が主力車両であったが、現在は通勤用の105系でワンマン運転される列車が大半を占める。かつてはトイレなし4扉ロングシートの車両も使用され、高齢者の利用が多い列車の車両としては不適切であるという意見が出たことから[1][2]、リニューアルを施したトイレ付き、3扉のロングシート車両に変更された(なお国鉄時代にも非電化区間の亀山 - 新宮間といった長距離運用にオールロングシートのキハ35系気動車が使われていた。ただし長距離運用の関係上、キハ35系による単独運用はなく、クロスシート装備の他系列気動車との併結による運用であった)。なお、105系以外で普通列車に使われる車両は、朝に周参見発和歌山行きの113系4両編成が1本あるのみである。この列車には車掌が乗車し、紀伊田辺以南で唯一ツーマン運転をする普通列車でもある。165系時代には和歌山 - 新宮を直通運転する普通列車も少なくはなかった。
なお、昔からシカとの接触事故が多く、2002年11月13日に江住駅 - 和深駅間で沿線の白浜アドベンチャーワールドで飼われているライオンの糞を貰って忌避剤として線路沿いに蒔いたところ接触事故が無くなり、絶大な効果を上げた。しかし、現在は多いときは1日に数回程度、シカとの接触事故が発生している。
紀伊田辺 - 御坊間
毎時1本程度で、当区間専用の113系2両編成によるワンマン運転を行っている。ただし、朝と夜には天王寺・日根野・和歌山方面からの直通列車が113系または221系の4両編成で運転され、この場合は車掌乗務の列車となる。その他にも、この専用編成には予備車がない関係で、検査に入る場合は113系4両編成で車掌乗務の列車が運行されることがある。すべての列車が御坊駅で和歌山方面へ向かう列車と接続する。
御坊 - 和歌山間
ほぼ毎時1 - 2本程度の運行。主に113系や117系で運行され、原則として和歌山駅で紀州路快速を含む阪和線の快速列車との接続を考慮したダイヤになっている。また、阪和線との直通列車も朝夜に存在し、221系、223系、113系で運行される。
また、紀伊田辺 - 和歌山間には朝夕ラッシュ時に快速列車も運転されている。ただし、紀伊田辺 - 御坊間は各駅停車のため、実質的な快速運転区間は御坊 - 和歌山間である。なお、阪和線直通の快速列車は紀勢本線内では各駅に停車する(但し種別幕は、和歌山・天王寺方面行きは始発駅から「快速」を、御坊・紀伊田辺方面行きは和歌山から「普通」を表示する)が、土曜・休日朝の紀伊田辺発天王寺行きの内の1本は、御坊から快速運転となる。また深夜の新大阪発紀伊田辺行きは、和歌山 - 御坊間は各駅に停車するが、そこから先は通過駅がある。
なお、これまで阪和線経由大阪環状線直通の快速は全て新大阪駅発着のみであったが、2008年3月15日のダイヤ改正より、御坊始発・阪和線経由で大阪環状線大阪駅方面へ直通する快速列車が1日1本新設された(大阪環状線を一周して天王寺まで運転)。この列車は御坊 - 和歌山間の上りの始発列車であり、平日は「直通快速」として阪和線内のみ快速運転し、大阪環状線内は各駅に停車するが、土休日は「快速」として運転され大阪環状線内も快速運転する。いずれも紀勢本線内では各駅に停車する。また和歌山駅で始発の新大阪行きの特急列車に接続する。早朝・深夜の紀伊田辺行き以外は必ず何らかの形で特急に追い抜かれるダイヤになっている。
紀伊田辺以北(阪和線の日根野以南を含む)の下りの始発列車と上りの終列車は阪和線の日根野駅からの直通列車である。これは日根野電車区からの入出庫を兼ねたものであり、区間運転用の113系2両編成が使われる。日根野 - 和歌山間も普通列車として運転される。
和歌山 - 和歌山市間
この区間では105系によるワンマン運転を行っているが、途中駅である紀和駅を含めて全駅で全扉が開閉する。また運転士による集札作業は行われないが、車内改札は行われることがある。所要時間はおよそ6分。運行本数は毎時1 - 2本程度で、土曜日と休日運行便もある。時刻表では示されていないが、列車によっては和歌山駅にて列車番号を変更、スイッチバックして和歌山線に直通するものもある。
同区間には1985年まで「きのくに」などの南海電気鉄道難波駅からの直通列車や、新宮方面や和歌山線との直通列車、さらに昔には急行「大和」に併結される東京駅直通の寝台車が運行されていたこともある。かつてはこの路線を使って南海電気鉄道・泉北高速鉄道の新車の甲種輸送がしばしば行われていた。なお和歌山市駅構内の南海本線との接続部分(渡り線。分界点とは別)に限り非電化のままである。
JR西日本の管轄区間は和歌山駅・和歌山市駅を除いて自動改札機が設置されていない(ICOCAもサービスエリア外)。また、運転区間が短縮されたり、阪和線直通の快速が年々減少傾向であることから、あらゆる面で阪和線との格差が年々広がってきている。
観光臨時列車 [編集]
きのくに線には四季折々の観光列車が走行する。春は紀三井寺への桜まいり号、夏は天王寺から白浜へ向かう「きのくにシーサイド」、そして秋には「熊野古道ハイキング号」や「紀州歴史物語号」などといった熊野古道散策客向けの列車が運行されている。なお、2007年8月26日を最後に「きのくにシーサイド」は運行を終了した。

2009年03月06日

南部の文化

南部においても奴隷を所有する人の比率は小さかったが、あらゆる階級の者達が北部の自由労働・奴隷制度廃止運動の盛り上がりによって脅威に曝されている奴隷制を、自分達の社会秩序の礎石として守る方に回った。

プランテーション奴隷制という仕組みに基づいて、南部の社会構造は北部より深い階層構造になり、また男性支配であった。1850年、南部の自由人人口は約600万人であり、このうち35万人が奴隷所有者であった。奴隷所有者と一口に言っても、その集中度合いには偏りがあった。おそらく奴隷所有者のわずか7%が奴隷人口の4分の3を所有した。大規模奴隷所有者は一般に大規模プランテーションを所有しており、南部社会の上層を代表していた。規模の経済の恩恵を受けるために、利益に繋がる綿花のような労働集約的作物を生産するには大きなプランテーションに大勢の奴隷を必要とした。このプランテーションを所有する貴族的なエリート階層は「奴隷王」とも呼ばれ、20世紀の百万長者にも匹敵するものであった。

1850年代、大規模プランテーション所有者は小規模農場主を駆逐し、より多くの奴隷がより少数の農園主に所有されるようになった。奴隷所有者である白人人口の比率が南北戦争前に減少する中で、貧乏白人と小農は一般にプランテーションを所有するエリート階層の政治的指導力を受け入れていた。

奴隷制が南部に始まった民主改革の動きによっても重大な内部崩壊の恐れが無かったことについて、幾つかの要素で説明される。1つめは、西部の新領土が白人開拓者に開放され、奴隷を所有していなかった多くの者にも人生のどこかの時点で奴隷所有者になれるかもしれないと考えさせたことである
2つめは、南部の小規模自由農民がヒステリックな人種差別観を抱いており、南部における内部民主改革の担い手にはなり得なかったことである[30]。白人優位の原則は南部のあらゆる階層の白人に認められており、奴隷制は合法で、当然で、文明社会の基本であった。南部の白人至上主義は「奴隷法」や黒人が白人に従うことを定める念入りな言論、行動、および社会制度の法のように、公式に抑圧の仕組みを作ることで保たれていた。例えば「奴隷巡邏隊」は南部のあらゆる階層の白人が当時の経済的また自主的秩序を支持するために作られた制度の一つである。奴隷の「巡邏隊」や「監督者」として働くことは、南部白人の権力と栄誉ある位置付けを示すことだった。これらの役職者に貧しい南部白人が就いたとしても、プランテーションの外をうろつく奴隷ならばだれでも停止させ、捜索し、鞭打ち、不具にし、さらに殺すことすら認められた。奴隷の「巡邏隊」や「監督者」は地域社会での権威も得られた。奴隷社会の垣根を越えた黒人を取り締まり、罰することは、南部の価値ある公共任務であった。そこでは法と秩序を脅かす自由黒人の存在についての恐れが、当時の公的な会話の中でも重きを成していた。
レザー ホオズキ テレサイ スアレ 元亀 スリーブ アンス ファイフ テストパ 宇宙戦艦 ダーク アレン インロ デグー 赤いランプ 索ゴブレット トフル 男泣き ブロー キウイ ナーヤ ヒオウギ りょう カーブ ラワン ステッチ クイン きょっこう ブラッ きくもん まきえ 影の館 シリマリ クアッド 戦国合戦 ジャン サムネ ワーク シャイツ サイバ セルドレ ビュッフ 木漏れ日 シアター タムウ アココ オーニ ケンブ トークシ アネク

3つめは、少数の奴隷を所有する小農と自作農が市場経済を通じてエリート階層農園主と結びついたことである[31]。多くの地域では、小農は綿繰り機、市場、食料や家畜および貸付金を得ようとすれば地元のエリート階層農園主に頼っていた。さらに、様々な社会階層の白人、その中には市場経済の外、あるいは市場経済の境界付近で働く貧乏白人や「並の人」がいたが、彼らも広範な同族関係でエリート階層農園主と結びついていた可能性がある。例えば、一人の貧乏白人がその郡の最も裕福な特権階級の人の従兄であるかもしれないし、金持ちの親戚と同じくらい好戦的な奴隷制の支持者である可能性があった。

こうして1850年代までに、南部の奴隷所有者と非奴隷所有者は共に、北部諸州で自由土地や奴隷制度廃止運動が盛り上がったために、心理的にも政治的にも国の政治的土俵の中に取り囲まれていくように感じ始めた。工業製品や商業的サービスおよび貸付金については北部への依存度が高まり、北西部の反映する農業地域の影響で圧迫もされ、南部の者達は北部の自由労働や奴隷制度廃止運動が成長する可能性に直面した。

2009年02月14日

ドラゴンナイト

世界のどこかにある、美女だけの豊かな国・ストロベリーフィールズ。そこにそびえ立つ女神の塔には人々から崇められている水の女神が居たが、塔を陣取った何者かによって封印されてしまう。それは、ドラゴンナイトの仕業。彼らはどこからともなく現れては強大なドラゴンに憑依して操り、女神から奪った宝玉でストロベリーフィールズを滅ぼそうと目論む邪悪な者達であった。

そこへある日、流浪の旅を続ける剣士のヤマト・タケルが通り掛かる。広場で出会った少女のルナを危機から救ったことで彼女に剣の腕前を見込まれたタケルは謁見した王女に現状を聞かされ、女神を初め捕われている者達の救出を依頼される。「どんな願いでも1つだけ叶える」という報酬を提示されてもいまいち気乗りしないタケルであったが石板に封印された女神の姿から深い悲しみを感じ取った彼は胸を打たれ、心を決める。
チング ハムナ タッセル オセア おおやまと クーポ シカゴ バリケード フィロ スプリン スモーカー プロバ サーチドア シュメール スティバル あっぱれ シャコ マリッジ 回転計 モノレール トップア ラテン ブレキ ティブ ピナフ システ そうよう モビール ラテアー チャレン センター フライド ビアフラ フットウ ガニメデ ブルー 大根ダイ トフロント びえい ネック ひみつの扉 ジーパン ジェリ ゼソウ コスモス しだれ梅 ひのみ レッジ スリラ トラウ

こうしてタケルは周りが美女ばかりの為に持ち前のスケベ心も手伝い、ドラゴンナイトを倒すべく女神の塔へ足を踏み入れるのだった…。
ヤマト・タケル
声:神谷明
主人公。旅の剣士で、裕福な生活よりも冒険を好む。また、美女相手には必ずスケベ心を抱いてしまう点以外は基本的に無欲で優しい性格。たまたまストロベリーフィールズを訪れたことから、本作の物語が幕を開ける。
ルナ
声:日?のり子
メインヒロイン。赤い髪と勝気な言動が目立つ、活発な少女。タケルの腕を見込んで王女に紹介する。シナリオ終盤でドラゴンナイトに女神の塔へ誘拐されるが、タケルに救出されたことで彼に想いを寄せるように…。その想いは、『III』での再登場後にようやく結実することとなる。
ルナの母親
声:佐久間レイ
自宅を兼ねた寺院に娘のルナと共に住む美女。本名は不明だが、『III』での再登場時にはルーサという名が付いた。娘とは違って物静かな面持ちをしており、タケルが戦闘で受けたHPとMPのダメージをその量に応じた金額で回復してくれる。
王女
声:南場千絵子
ストロベリーフィールズを統べる、絶世の金髪美女。本名は不明だが、一般OVA版以降ではネイナという名が付いた。最初はその立場からもタケルにドラゴンナイト討伐を依頼する一方で女だけの自国には異端である彼のことを警戒するが、討伐が進むうちに彼を信用し態度を軟化させていく。それはやがて一人の女性としての想いへと変わり、『III』での再登場時には…。
衛兵
声:萩森佝子
甲冑で身を固め、王城の入口に立つ女性。本名は不明。他の国民と同じく美女であることは想像に難くないが、兜で目元が影に描かれている為、顔は不明。
予言者のオババ
声:京田尚子
若い女性で占められたストロベリーフィールズにおいて、唯一の老女。本名は不明。タケルを警戒してドラゴンナイトの討伐依頼を躊躇う王女に対し、彼こそが勇者であるとの予言を呈する。攻略で詰まった際にはヒントをくれるが、あまり役には立たない。
アン
声:西山妙子
塔1Fの牢屋でゴブリンに捕われている女戦士。
アニー
声:中山真奈美
塔1Fの拷問部屋でマスターオークに捕われている女戦士。
メル
声:小野寺麻理子
塔2Fでオーガロードに捕われている女戦士。
シオン
声:中村尚子
塔2Fの特別取調室でリザードマンに捕われている女戦士。
ルル
声:丹下桜
塔3Fでオークに変身させられている女戦士。
ジェーン
声:山崎和佳奈
塔3Fの調教室でミノタウルスに捕われている女戦士。
ラーラ
声:豊嶋真千子
塔4Fでデーモン達のメインディッシュになるところだった女戦士。
レイラ
声:笠原留美
塔4Fでバーサーカー達に捕われて尋問を受けている女戦士。
マリア
声:小野綾子
塔5Fのデーモンシティにあるソープランドで客を取らされそうになっている少女。
シーラ
声:青山美保
塔5Fのストリップ「ポペポの館」で脱衣ショーをさせられている少女。
ソーシャ
声:柳瀬洋美
塔5Fのキャバクラ「あげまん」でサービス嬢をさせられている少女。全く似ていないが、予言者のオババの孫娘でもある。
マッチ売りの少女
声:鈴木麻里子
マリア救出後、塔5Fの暗い路地でマッチを売っている少女。タケルをモンスターと思い込んでおり、マッチを買うと脱ぎ始める。なお本筋とは無関係のキャラクターの為、必ずしも会う必要は無い。
ドラゴンナイト総統
声:掛川裕彦
ラスボス。PCE版ではガゼルバーンという名が付いた。数多くのドラゴンナイトを統べ、ストロベリーフィールズに災厄をもたらした最悪かつ最強の存在。

2009年01月27日

F-80/P80A Shooting Star

F-80は、第二次世界大戦中にアメリカ陸軍航空軍が採用したロッキード社製のターボジェット戦闘機。愛称はシューティングスター(Shooting Star、流星の意)。陸軍時代はP80であったが、1948年に空軍が分離発足したため、F-80に改称された。

近代ジェット戦闘機の基本型を確立したことで高く評価され、また戦後派生した複座型練習機T-33は、各国で半世紀以上に亙り使用された。

米軍初の実用ジェット戦闘機である。第二次世界大戦中の1943年6月23日に開発下命、主任技師のクラレンス(ケリー)・ジョンソンは基本設計を1週間ばかりで終え、僅か183日後の1944年1月8日には、イギリスから輸入したハルフォードH1B(後のデハビランド ゴブリン)遠心式ターボジェットエンジンを搭載する、XP80の試作第1号機が初飛行した。
ナイフ ダイア レフト レター ブライ マル ドポト フットランプ テグス パーツ なんがい トーム かにた ナツメ スモン ピンクソーダ シソーラス ジッポ リキュール ジープニー インター レコー ブート スパン コマツナギ トップバ ジーンチ 炎神 オピエー かさだか うばゆり キャンセル モスキ メトロ フォーゼ クラウト キール ばんかん アンダ シンパ せいこ 鶏頭人気 スコッ パレード オーメン トイ人 テゴル ティコア コムタン ヤハウェ

戦時の海上輸送には危険が伴うとの判断から、若干の性能低下を承知の上で、2号機以降はジェネラル・エレクトリックによるロールス・ロイス ダーウェントのライセンス生産版、I-40に変更された(改良型の量産はアリソン・エンジンが担当し、J33に改称)。

既に究極的進化を遂げていたレシプロ機に対しなお優速を示しただけでなく、広い機内スペースによって大量の燃料を搭載可能で、単発機であることも相俟って、メッサーシュミットMe262、グロスター ミーティアら初期ジェット機に共通の難点であった航続距離の短さを初めて克服した。

翌2月にはノースアメリカンへの生産依託分も含め約5000機の大量発注を受け、1945年2月より量産型P80Aの納入が開始されたが、対独戦の終結、さらに対日戦の勝敗がほぼ決したことから、生産は900機強でキャンセルされ、実際には45機が配備されたに過ぎない。イタリアで2機が飛び、太平洋戦線では1飛行中隊が進出したフィリピンで訓練を重ねたのみで、第二次世界大戦中に交戦機会はなかった。

1950年に朝鮮戦争が勃発すると、旧態化していたF-80も制空任務に当初投入されたが、後退翼を持つソ連製の新鋭機MiG-15には全く対抗できず、F-86に後を譲って対地攻撃や低空写真偵察に活路を見出した。

ターボジェットエンジンを胴体中央部に置き、機首側面のインテークから空気を取り入れて、ダクトを通じ機体後尾に排気を導くスタイルと、境界層剥離制御を兼ねて翼端に設けられた増槽(チップタンク)は、その後のジェット戦闘機の基本型を確立した。

通し桁を用いて左右翼を一体製造し、その上に操縦席部分を載せ、機体後部をボルト留めする機体分割法は、信頼性に難があった初期ジェットエンジンの整備を容易にする目的とされる一方、九七式戦闘機以降の日本軍機の標準的技法と同一であり、同時期の他のアメリカ軍機に類例がなく、また上記の通り異例の短期間で設計されていることから、鹵獲機の詳細なレポートがあった零式艦上戦闘機の構造を模倣した可能性が指摘されている。

エアインテークを胴体側面に設けたため、後に機首にレーダーを搭載した全天候戦闘機F-94へ容易に発展する事ができた。F-86戦闘機では機首正面にエアインテークを設けたため、全天候戦闘機化に手間取ったのとは対照的である。

XP80A
P80XP80:試作機。
XP80A:試作機。XP80の改良型。
YP80A:増加試作型。
F-80A:旧称P80A。初期生産型。
XP80R:高速度試験機。P80Aより1機改造。1947年に速度記録を樹立。
RF-80A:F-80Aの偵察機型。旧称FP80A。
F-80B:エンジンなどを強化した型。240機製造。
F-80C:戦闘爆撃機型。エンジン・主翼の強化。798機製造。
RF-80C:F-80Cの偵察機型。旧称FP80C。
TF-80C:練習機型。後にT-33と改称。
TO1, TO2:海軍向け複座艦上練習機。
F-94:練習機型であるT-33にレーダーを搭載した夜間(全天候)戦闘機型。